2016年3月30日、船橋オートレース場が閉場しました。
この出来事はニュースでも結構流れましたので、
たいていの方は赤字のためにやめざるを得なくなったことぐらいはご存知かなとおもいます。
65年の歴史の後半20年程度の付き合いでしかないですが、
私はいちオートレースファンでしたので、一般の方よりは多少オートレースに関する知識があります。
なぜ今回、これを題材にレポートを記述したかといいますと、
単に赤字になったという説明しか浸透していないとおもわれるからです。
歴史の勉強は先人たちの過去の過ちや出来事を知り、
それを繰り返さないように生かすという一面があります。
そういった面でみると、オートレースのメディアが少ないこともあり、
なぜ赤字になったかが説明できているところは、ほとんど無いとおもいます。
なぜオートレースは売上が悪くなったのか。
そしてターニングポイントはどこだったのか。
ファンの立場からも、万人向けにもわかるようにまとめてみました。
〜1章 船橋オートレースのはじまり 〜
全てのきっかけは、戦後の財政難を理由に、
国がレースを用いた公営ギャンブルが可能という法を制定したことからはじまりました。
競馬は戦前にもありましたが、終戦直後の1946年に復活。
続いて1948年には競輪、1950年にはオートレース、1951年には競艇が認可されました。
「よみうりランド」は競馬の復活にあわせて「船橋競馬場」を建設していましたが、
建設段階で自動車、バイクを用いたギャンブルも可能という話が舞い込み、
馬が走るコースのさらに内側にオートレース用のコースを作り、
競馬とオートレースどちらでも開催できる形状に変更されました。
この施設はオートレースのギャンブル認可と同年の1950年にオープン。
船橋競馬場の完成と同時に、ふなばしオートレースの65年の歴史がはじまりました。
オープンまもない頃、船橋競馬場のコースの中に船橋オートレース場があった頃の写真です。
周囲の海はまだ埋め立て進行中で、国道357号がまだありません。
競馬場の完成から5年後の1955年。
この競馬場の近くに、当時日本一といってもおかしくない娯楽施設が生まれました。
名称は「船橋ヘルスセンター」。場所も運営会社も今の「ららぽーと」と同じところです。
船橋市HP「栄華を極めた船橋ヘルスセンター」
現在の施設で言うとLAQUA(後楽園)のようなもので、全盛期には年間400万人が訪れていました。
(※現在のLAQUAで年間500万人。1960年代の交通網を考えると驚異的な値です。)
1965年、船橋ヘルスセンターは事業拡大を狙い、敷地の一角にサーキットを作りました。
それが「船橋サーキット」で、鈴鹿に続き全国で2番目に作られたサーキットでした。
日本一を決定する「全日本自動車クラブ選手権」も行われ、
「File 086 トージスルーム」にある浮谷東次郎の伝説が生まれたりしました。
船橋サーキットありし頃の競馬場周辺。
前出の開場当初の写真を見ると、埋め立てがすさまじいスピードで進んでいることがわかります。
ちなみに船橋サーキットのすぐ右は飛行機の発着場で、遊覧飛行も船橋ヘルスセンターのアトラクションの1つでした。
そして、右下の海は後の「谷津干潟」になります。
しかし、残念ながら船橋サーキットはたった2年で閉場してしまいました。
当時モータースポーツや自動車開発でサーキットを使うという発想が無かったため、
レースイベント時以外は誰もお金を払って走ろうとしなかったためでした。
この閉場のタイミングで船橋競馬場の持ち主、よみうりランドから、
オートレース場部分だけ移転した施設を作っては?という話が舞い込んできました。
当時バイク用走路はダートだったため、レースがあると、外周の競馬用のコースへ砂が飛んで被害をうけることも問題となっていました。
そのため、オートレースを別のところに移して、競馬場は競馬専用にしたいということでした。
ダートコースの写真。写真奥に競馬用のコースの柵が見えます。
そして、オートレースがダートで行われるのは危険ということで、
全場アスファルトで走るように変更されることが予定されていました。
双方にメリットがあるためか、わずか半年でその話がまとまり、1968年に現在の場所に移転しました。
現在の船橋オート、競馬場周辺です。google mapを前出の写真にあわせて切り取ってみました。
船橋サーキットのコースのコースレアウトがそのまま敷地の形になっていることがわかります。
この経緯から、競馬場の持ち主だった「よみうりランド」が移転先のオートレース場用の施設を作り、管理。
それらが建つ土地は、もともとの船橋サーキットの持ち主だった「ららぽーと(三井不動産)」が所有、
ふなばしオートレースの主催者が2社から借り受けている形ができあがりました。
その借り受け額は2015年時点で年間6億円にのぼり、
結果的には船橋オートレースの存続の金銭的な基準となっていきます。
〜2章 閉場の前例 〜
船橋オートレース場の移転まもない時に、世間を揺るがす大事件が起きました。
それは「黒い霧事件」です。
簡単に言うと芋づる式に野球、オートレースで八百長が発覚した事件です。
この事件に絡んだとして、数人のオートレースの選手が処分されました。
その中の1人に、当時現役最強だった戸田茂司選手が含まれていました。
悪いことは立て続けに起こります。
その当時東京都知事だった美濃部亮吉は、選挙の公約にギャンブル場廃止を掲げており、
その公約実行のために大井オートレース場がターゲットになりました。
残念ながら黒い霧事件の当事者の1人戸田茂司選手が大井オートレース場のエースだったため、
オートレース側は世論へ反論しようがありませんでした。
1973年に大井オートレース場は閉場。
ただし、廃止ではなく移転が認められたため、
伊勢崎オートレース場(群馬県)として再スタートすることになりました。
最強の選手が処分され、移転とはいえ、東京からオートレース場を失う。
一気にどん底まで陥ったオートレース界ですが、
幸いにもその穴を埋める超人的な選手が出てきました。
〜3章 スーパースターの誕生 〜
養成所がはじまってから9期目、1971年にデビューしたレーサー達。
花の9期と呼ばれ、70〜80年代は彼らを中心にオートレースの話題は動くことになります。
その中心となったのが船橋オートレース場所属の飯塚将光選手。
ハンデ一切なしの「日本選手権」で何度も優勝、
その風貌もナイスガイで、いつしかミスター・オートと呼ばれるようになりました。
表彰台の真ん中が指定席の飯塚将光選手。
この頃のマスメディアは白黒からカラーに移行したTVが中心でしたが、
その時期はオートレースが土日の午後にTV中継されていました。
そして作曲家の平尾昌晃氏がオートレースのファンであり、
その人望人脈を発揮し、さまざまなTV番組に飯塚選手を出演させて広報に尽力してくれました。
結果、1992年(平成4年)のふなばしオートレースは、
過去最高の車券売上(約744億円)、入場者数113万人を記録し、
この1年だけで29億4千万円が千葉県、船橋市に入りました。
おそらく世間におけるオートレースの知名度は、このあたりが最高だったのではと思います。
その裏で、選手間である問題を解決する動きがありました。
オートレース用のバイクは選手の自腹、つまりレースで得た賞金や手当を使って調達します。
80年代のトップ選手が乗っていたバイクのエンジンはイギリスのトライアンフ社製です。
海外製のため、整備や部品の入手が大変でしたが、飯塚選手によりその強さは証明されていました。
トライアンフが手に入らない、あるいは整備できない選手は国産エンジンで対抗しましたが、
1980年末期まで太刀打ちができませんでした。
つまり、大金をはたいてトライアンフを手に入れて、かつ整備ができなければ、
トップの選手と同じ土俵に立つことすらできない状況だったわけです。
そんな状況だったため、飯塚選手の黄金時代は長く続きました。
田代祐一選手のトライアンフ。おそらく1980年代のものです。
1980年代末期、トライアンフの長期政権に終止符を打ったのはフジ(HKS)のエンジンでした。
しかし、このフジはトライアンフに勝てるパワーを持っている反面、
強い振動に起因する白蝋病や腰痛など、選手の健康に関する様々な問題を引き起こしました。
※白蝋病・・・強い振動の影響で、手や足などの体の先の部分の毛細血管が弱くなり血が通わず蝋のように白くなってしまう病気。
おまけにHKS自体が小さいメーカーで、多くの選手が使いたくても生産が追いつかないので、
手に入れていない選手との格差を、トライアンフ全盛時代以上に生み出してしまいました。
そしてついに金銭面、健康不安、競争の安全面といったさまざまな問題を解消するために、
全選手が同じエンジンを使ったバイクにしようという流れになり、
専用に開発されたスズキ製600cc2気筒、通称「SEAR(セア)」に統一されました。
セアの画像です。
このセアは現在も使用されており、現時点で導入から24年。
今後変わる可能性は低いので、過去のエンジンの中で一番採用期間が長い・・と思います。
〜4章 スター選手総入替 〜
1993年に「SEAR(セア)」への全選手一斉乗り換えが行われました。
乗り換え後すぐに頭角を現したのが、片平巧選手と島田信廣選手。
いずれも船橋オートレース所属で、10年ほど2強の時代が続くことになります。
両者に共通するのはスタートが遅く、レース序盤は最後方なのですが、
6周するうちに7人を次々抜いてトップになるという、
オートレースの醍醐味、爽快感のある勝ち方をしていました。
この2人だけでなく他の地区のエース選手も、後半に7人抜き去るレースが多くなりました。
しかし、この状況は当初の一斉乗り換えの意図に反していました。
スズキが設計したエンジンはフジ(HKS)より50ccほど排気量が減ったので、
選手の差がスピードではつかず、接戦が増えると予測していました。
ところが、新エンジンは軽量でバランスが良く、高速走行時のコントロール性が抜群だったため、
逆にスピードが出る結果となってしまいました。
結果、スピードに対応できなかったベテランレーサーの大半が力を落としていきました。
そして、この新旧スター入替が浸透してきた頃、レースの組み合わせやハンデを考える人、
通称「番組屋」がこの時期の売上に貢献していたように思えます。
この時期は基本的にスター選手が勝てるようにレースが編成されていました。
スター選手がありえないような重いハンデを背負っているようにみえても、
お客さんの大半が、その重いハンデを跳ね返してトップを取ってくれると考えます。
そして、みごとにその期待に応えてスター選手が勝利、客は彼らを讃え、
それをまた味わいたくて来場してくれる。そういう絶妙なレースが多かったのです。
そしてその中でもトップと言えた片平巧選手、島田信廣選手。
船橋オートレースのファンは最終ラウンドに出てくる2人の選手に全幅の信頼を置き、
100円買って120円〜140円ぐらいの低配当であっても、
水戸黄門や特撮ヒーローのような「締め」を見届けたいがために、通っていたのではないかとおもいます。
2001年の選手名鑑の表紙の写真。
写真が大きい人で、左から片平巧選手、高橋貢選手(伊勢崎オート)、島田信廣選手。
セア乗り換え後から10年間ぐらいまでは、この3人がオートレースの歴史を作ったともいえます。
ただし、売上はじわじわと下がっていました。競馬、競艇、競輪を含めた公営ギャンブル全体でいえば、
いずれも同じような下がり幅だったので、日本の経済的なものと連動した「妥当な低迷」ともいえました。
〜5章 既存ファン離れの戦犯 〜
1997年、オートレースの世界に期待の新人がデビューしました。
元SMAPの森且行選手です。
しかし彼は川口オートレース所属で、船橋オートレースへの恩恵は微々たるものでした。
売上が下がり続けるも、表面的にはなにげなく運営されていたオートレースに、決定的なことが起こります。
タイヤの規格が、ある時期からしれっと変わってしまいました。
変わった原因は、かの天災に起因しています。
1995年1月17日に発生した阪神大震災により、神戸にあったオートレース専用タイヤを作っている工場が被災。
生産拠点は名古屋の工場に移され、そこで同様のタイヤが作られることになりました。
この名古屋で作られていたタイヤは「名古屋タイヤ」と呼ばれました。
この「名古屋タイヤ」が流通してくるにつれ、旧タイヤより格段に性能が良いことが知れ渡り、
トップ選手がこのタイヤを手にすると、レースタイムがさらに高速になってしまいました。
ただ、このタイヤに対するファンの不満は聞かれませんでした。
その理由は速い選手がさらに速くなっただけで、選手の勢力図に変化がなかったからです。
この「名古屋タイヤ」はあくまでも震災の影響による期間限定の移転だったため、
2004年に名古屋での生産が終了。
もともと神戸の工場で作られていたものと全く同じものはすでに作れなくなっていたので、
減りやすいから耐久力を増やしてほしいなどの選手の意見を踏まえて、
新しく設計されたタイヤが新工場で生産されることになりました。
これが致命的な問題を引き起こすものでした。
名古屋タイヤに代わる新タイヤは、減りが遅いという面では反映されましたが、
パワーを出そうとするとグリップせずに滑るため、コントロールが難しいものとなっていました。
それまでの主流だった、ハイスピードで後ろから抜くレースが成立しにくくなってしまったのです。
そして4章で記述した「番組屋」の変化がありました。
その背景に、オートレースの収益が危険水域に突入してきたため、
収益が少ない無駄な開催は避けるという形で、レース数そのものを減らすという改革がありました。
そうすると、レース数に比べ選手が多くなってしまったため、
高齢の選手や、極端に遅い選手に対して肩たたきがおこなわれました。
生き残った選手は、厳密に審査された「全国ランク」がつけられ、
それに従って全選手平等に勝てる可能性があるように番組が作られるようになりました。
結果、「弱い選手でも大きなハンデがあれば、なんとか勝てるだろう」と予想できたり、
「強い選手のハンデが重すぎるけど、相手はそれ以上に遅いからなんとか勝てるだろう」と予想できたりするような、
オートレース特有の予想の醍醐味が味わえるレースが激減してしまいました。
お客さんにとってボーナスレースともいえる「スター選手が勝つ前提の番組」が作れなくなり、
実力差が少ない選手8人を僅差で並べたレースが増えていきました。
全選手が平等に勝つ可能性があるレース。
平等がゆえに、スタート後の位置から何もかわらずゴールして終わってしまうレース。
タイヤの所為で、ハンデが重いスター選手が勝てない。
本来のハンデの意味からすると、それが正しいのかもしれませんが、
興行的な観点からは、スターが勝てないレースは面白くありません。
私にとってオートレースがつまらなく感じ、
オートレース場に行く頻度が減ったのはこの頃からです。
私だけでなく、一緒にオートレースを楽しんでいた友人もいつしか消えていきました。
実際、2005年度は来場者数が昨年度の50万人から30万人に激減しており、
将来的にオートレースの収益を支えていくかもしれなかったファンの大半が消えてしまったのは、
間違いなくこのタイミングだとおもいます。
〜6章 審判の日 〜
名古屋タイヤ終了と「平等ランキング」でレース番組がつまらなくなってきた頃、
2004年の読売新聞でこのような記事があがり、廃止が囁かれはじめていました。
毎年低下する売上は競馬、競輪、競艇も同様なことからするとやむを得ないかもしれないが、
来場者数の異常な減りにさすがに危機感を感じたのか、
オートレースは2006年に運営を民間委託し、様々な改革案を掲げて実行に移してきました。
3連単やインターネット投票の導入、
国内モータースポーツにおいて実績がある選手たちがオートレースデビューできる門戸の解放、
女性選手のデビュー・・・
ただ、良いことばかりではなく、赤字返上のために還元率を悪化させる、という悪手を行ってしまったこともありますが。
2008年頃にふなばしオートレース場のすぐ隣にマンションが出来、
オートレース場があるのをわかって買ったくせに騒音で抗議するなど、
理不尽な事件がありましたが、騒音を抑えるマフラー装着や開催日の調整等で、
マンション住民に妥協をとりつけるなど、綱渡り運営が続きます。
ふなばしオートレース場真横にできた高層マンション群。
あそこからレースを見たかった、なんて思うこともありましたが、
オートレースファンの共通認識は「あそこの住民とデベロッパーは廃止に追い込んだ敵」。
そして、迫ってきた「審判の日」。
1968年に船橋競馬場から移転して今の地にある建造物群は、
老朽化のために設備の更新が必要でした。
リミットは平成28年度。つまり今年です。
この時点で、写真右上の山側のスタンドは老朽化のために立ち入り禁止となっていました。
ちなみに左の「サテライト船橋」は、もともとはリッチな人専用の有料席でしたが、
オートレースと競輪の運営団体が合併したため、場外発売所に使われるようになりました。
販売設備の更新期限はすでに1年過ぎている状態で稼動しているので、
それらと走路改修等も含めると、全てにかかる費用は14億円。
オートレースだけでは14億円は調達できないので、
もしオートレースを続けるのであれば、
千葉県もしくは船橋市が税金を使って投資する必要がありました。
つまり「船橋オートレース場に税金14億円を投入するか否か」これが争点でした。
毎年1億円程度稼げて14年かかってもよいから、
投資した税金が市政へ戻るなら、この議題は問題なく通ったでしょう。
しかし、2014年度は2億7千万円の赤字。
さらに、2015年度は3億8千万円の赤字の試算。
他のオートレース場はどうかというと、売上が低くても、
自前で施設を持っているため極端な赤字にはなりませんが、
船橋オートレースはよみうりランドとららぽーと(三井不動産)への賃料6億円が足をひっぱることになりました。
前述の赤字は賃料がなければ、
単純計算で、2014年は3億3千万円、2015年は2億2千万円の黒字だったわけです。
1年経てば赤字がさらに拡大して4億円台に乗るかもしれない、おまけにそれが好転する可能性は低い。
見込みがないところに14億円を注ぎ込むことは、市政、県政としてもありえません。
廃止反対派の反論材料としては、
直近の船橋市議の選挙でオートレースの選手から当選者が出たので、存続意見が多いこと。
オートレース関連の雇用は小さくはなく、千葉県が問題としている失業者数がさらに増えてしまうこと。
累計で千葉県、船橋市に合計で約400億円もののお金をもたらしたのに、
いざ赤字になると閉鎖を迫るのは薄情だということ。
これらのことを総合して森田知事が下した判断は・・・廃止。
かくして、船橋オートは2016年3月末をもって終了することが決まりました。
閉場式で森田知事、松戸市長へ野次が飛んでいましたが、
客観的にみても今の県政、市政が原因じゃありません。
むしろこの状況で、県政トップが廃止を決断しなかったら狂っています。
さて、ここまで記述したのはよいが、
誰だかわからない人の赤字の試算とかそういう数字的なもので、廃止したような印象しかありません。
船橋オートレース場がどんな客入りだったかということで、画像をあげていきます。
ただし、閉場最終日付近はものすごい客が入っていましたし、私も行きました。
その客が多い画像を上げても記録的には何の意味もないと思いますので、
閉場がほぼ決まった後(2015年5月時点)で、片平選手が急逝し、献花台が設置されたときのものにします。
ちなみに平日です。
試走時の雰囲気。
選手が走っているので、ギャンブルの流れ上、本来はお客さんのほとんどが見届けているはずなのですが、
ほとんどが見届けたうえで、これぐらいしかお客さんがいない状態でした。
例の高層マンションが左に建つあたり。
この画像のちょっと奥に、全盛期には人気予想屋「ミスター船橋」がおり、人だかりができていました。それが今は・・・
彼はオートレース場だけでなく、船橋競馬場にもいるはずなので、まだまだ健在だとは思いますが。
そして平日のこの日、訪れた目的である献花台。
飯塚将光選手、島田信廣選手とともに船橋オートレースを盛り上げた、片平巧選手。
飯塚選手、島田選手はすでに引退後に亡くなっていましたが、片平選手は現役。
つい10日前にはレースに出ていましたが、2015年5月20日に亡くなっていたとのこと。
死因は公表されていません。
ほかにも場内の画像を。
こちらは選手が走っていないので、ほとんどのお客さんが建物内に入っているとは思いますが、それにしても少ない・・・
いざ閉場となって最終日に殺到してオートレース存続しろ!なんて声高らかにあげても、説得力なんてあったもんじゃない。
最後に色が変ですが、船橋オートレース場のパノラマ画像もおいておきます。
さて、ここまで書きましたが、ターニングポイントはどこだったのか。
� 嵬掌轍哀織ぅ筺廚�らの世代交代に失敗と、新採用のランキング通りの「公正なレース」が同時期に行われ、ファンが減ったこと。
��移転の経緯から、毎年6億円の施設レンタル料を払う状態で運営を続けていたこと。
前者の�,僚侏荵�はオートレース界全体の話なので、船橋オートレースに限った話ではないですが、
オートレース全体で売り上げがかなり下がっています。
この売上減のダメージが�△任△辰燭罎┐傍杣�しきることができなかった、ということですね。
もし施設がレンタルでなく、全盛期に購入して自前のものになっていれば、
レンタル料は発生せず、今でも細々と続けられた可能性はあったかもしれません。
そして「名古屋タイヤ」が阪神大震災による偶発的な産物だったこと。
名古屋タイヤでなく、普通のタイヤのまま続けていれば、新タイヤになっても落差はそれほどなく、
単なる世代交代に見えたかもしれませんが、結果論ですね。
公営ギャンブル場というものは、カジノが作られる可能性があるぐらいで、
こういうレース系は、今後新しく作られる可能性は皆無です。なのにこうして1つ消えてしまいました。
古い日本の姿を未来の人が見るまでできるだけ残していてほしい、そう願う私としては残念な結果になりました。
私の船橋オートレースへの思い入れ、オートレースの顛末を通しての教訓、未来への遺産、
そしてマンションを買うときは隣の施設が何であるかぐらい知っておかないと、いらない恨みを買うことetc・・
かなり長いレポートとなってしまいましたが、少しでも何かを感じていただけたのであれば幸いです。
以上、船橋オートレース場をお送りしました。
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