File 172 桜花基地 三芳村編

太平洋戦争終戦間際に開発された、今までの常識を覆した兵器「桜花」。
千葉には「桜花」に関連する施設が点在するという。
はたしてどのようなものなのか?


知恩院
【所在地】千葉県南房総市下滝田1372
【地図】googleマップ
【HP】ありません。
【交通手段】車かバイクで。

桜花滑走路跡
【所在地】千葉県南房総市下滝田以下不明
【地図】googleマップ
【HP】ありません。
【交通手段】車かバイクで。

2011/11/05訪問

太平洋戦争の末期、日本軍のフィリピン戦線での敗退により、
太平洋の覇権が連合軍に掌握されました。
これにより日本本土にて戦闘が行われるのでは、という状況になりつつありました。

本土ではすでに石油や金属が不足しており、兵力もほとんどが国外へ遠征してしまっているため、
全体の10%程度しか残っておらず、圧倒的に不利な状況でした。
そういう状況から、日本軍は連合軍に致命傷を与える兵器の開発が急務になっていました。

そこで開発されたのは、世界で最初の特攻専用兵器「桜花」である。


(wikiのフリー画像から、この画像のものは靖国神社で展示されています。)

乗務員の操縦で目標に体当たりして自爆するという単純な発想から生まれました。
当初は反対が多かったが、他にとれる手段がなかったのでやむを得ず採用されてしまいました。
将校が自ら進んで乗って部下たちに特攻せざるを得ないようにしたため、
人材がどんどん減っていくというマイナス面が大きいにも関わらず。

この「桜花」の発進方法ですが、航続距離が30キロ程度と短いため、
大きい飛行機の下に吊るす形で搭載され、
目標が近づいたら切り離されて、そこから乗務員が操縦して目標に突っ込むという運用がされていました。

本土決戦がもし行われた場合、いちいち飛行機に吊るすわけにはいかず、
当然陸から発進できなければいけないので、
決戦にそなえて、桜花専用のレール付き滑走路を作ったわけです。
結局、本土決戦は行われずに終戦、この桜花基地はお蔵入りとなりました。


このレポですが、千葉県に2箇所ある桜花基地跡を、
2つのレポートに分けてお送りします。

まずは「道の駅三芳」のすぐ近くにある「桜花滑走路」と「レール」についてのレポです。


千葉でツーリング、ドライブで人気のある「道の駅 三芳村」。
この「道の駅 三芳村」から北のほうに1キロほど走っていくと、「知恩院」の看板があります。
まずはこの知恩院に行きます。


道中の看板に従って進んでいくと、知恩院の山門が見えてきます。
停めにくそうですが、一応駐車場はあります。


急角度の階段をのぼっていくと境内に出ました。
派手なものは何一つ無く、雰囲気が寂しい感じです。


本堂左側のほうに行くと・・・ありました。
これが「桜花滑走路」に使用されたレールです。


これは終戦間際に作られたはずなので、65年前のもの。
一応歴史的なもののはずなのに、普通に屋外に放置されているだけで、
これが桜花のレールだという説明もありません。
このお寺の山門横にあった「お寺の保有文化財リスト」にもありません。

レールを現状のまま、ぞんざいな扱いのままにするよりは、
近くの道の駅内に展示すればいいかなと思うのですが。

次はこのレールが敷かれていた場所に向います。


「道の駅三芳村」から北側にまっすぐの道路が続いていますが、
それが左右にうねってくるあたりで、左側の路地に入ります。
ちょっとわかりづらいいので、写真を参考にしてください。


そこから進んでいくと、左に木の柵、右に垣根が見え、分岐しているところがあります。
ここを右に曲がります。


すると舗装が消えて、砂利道になります。
バイクの場合は転倒しないように気をつけてください。


砂利道の途中、左側に田畑が見えますが、この中にあります。
画像のトタン小屋の右のところは畑になっておらず、物件まで通れるようになっています。

ちょうど田畑で作業している方がいらしたので、
入っていいかたずねたところ、快諾していただきました。


畑ではないところを歩いていくと、
横にまっすぐ盛り上がっているところがくっきり見えてきます。


上にあがってみると、一定間隔で長方形の溝が掘られています。
レールをなんらかの方法で固定するための溝であることは間違いないでしょう。


前のほう(山とは逆方向)に進んでいくと、溝の間隔がだんだん狭くなってきます。
そして最後のほうは、残念ながらパックリ折れてしまっています。

場所もなかなか難しいところにあり、形状から保存も難しいですし、
朽ち放題なのもやむを得ない面もありますが、
最低限、ここに何があったかを示すぐらいはやってほしいなと思いました。
「桜花滑走路跡」と看板を建てるぐらいはやってもいいと思うのですが。


結果的に桜花滑走路は、使う機会の無いまま終戦を迎えました。
使われていないから価値がないのかもしれませんが、
使われる事態になっていたら、日本は今ような経済・文化を保っていなかったと思います。
そう考えると他の場所であれ、桜花に乗って散った搭乗員のためにも、
他の戦跡より後世に伝え、残していってほしいと思いました。


以上、桜花基地 三芳村編をお送りしました。
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